Nigorobuna’s blog

普段の講義や本を読んだり人と話したりしたことについて

ヘーゲル 講義まとめ

 100分で名著は今月は『精神現象学』でした。見ましたか?日常でみんなが感じることは全てヘーゲルに書いてあると先生が言っていました。難しい本ですが頑張って読みたいですね。あとその番組の講師は斎藤さん。そういうわけで『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』を読んでみました。弁証法的人間というのはこういう人なのかなとしみじみと感じる。『人新世の資本論』読まないとまずい。そのうち読みます。以下講義まとめ

 ヘーゲル弁証法を発見し生成プロセスの論理的表現を試みたドイツの哲学者である。弁証法は“対話”を意味する言葉でソクラテスの問答法がもととなっている。この問答法はアリストテレスからは不確かな推論、カントからは経験を越えた不当な推論とまでこき下ろされたがヘーゲルはこれを肯定し弁証法を見出した。

また初期のヘーゲルが考案した「12のテーゼ」の中で「矛盾は真理の規則であり、非矛盾は虚偽の規則である」という「矛盾律」とのちに呼ばれるものは弁証法と大いに関連している。これはアリストテレス以来の「無矛盾律」に対立するものであり事物に動き、矛盾を見出す点において弁証法の登場に先駆けていると言える。この事物の動きや生命力に注目する考え方はヘーゲル有機体的自然観に由来する。

弁証法は正・反・合の図式が一般に知られるがこれはヘーゲル自身が唱えたものではない。ヘーゲル弁証法は自己運動(変化)のプロセスを一般に図式化したものである。まずAと¬Aという矛盾する二つが存在しこの対立が均衡となるBが見いだされる。しかし¬Bにも潜在的な矛盾がすでに存在しているとヘーゲルは考えている。この自発的運動において“疎外”というものが必要となる。“疎外”とは現在の自分の規範から距離をとる、言い換えれば反省をすることである。このことにより他者を存在させて新しい社会・共同体を作り出していくことが出来る。話を戻して、弁証法は上の様に進展していくのだがこれによって生み出される新たな概念は対立する二つにとって包括的・共通概念である。このプロセスは永遠に続くのではなく対立概念が存在しない究極の共通概念に到達したところで停止し、これを「本質」とヘーゲルは呼んだ。

自己実現(自己の社会化)のプロセスとして弁証法は具体的にどのような過程を経るのであろうか。ヘーゲルによればそれは複数の段階から成っている。まず他動者(自動者によって運動が受動的になされる者)と自動者の対立が存在する。これは感覚意識者にとって感覚意識対象であるとみなされることによって止揚される。次に感覚意識者と感覚意識対象の対立は経験的な自己(被反省者)へと止揚し、それから超越論的主観(反省者)と対立し止揚されて即・対自自己(自己反省の主体と対象の交替を無限に繰り返すもの)になる。しかしこの自己にとってあたらしく同質な存在として他者があらわれる。ここで二つの間での支配を巡って争いが繰り広げられるが、自己以外の存在を認め対等な立場と見なし合うことで対人的自己へと止揚する。このことをヘーゲルは「主人と奴隷の弁証法」により説明している。次に対人的自己となっても対人的他者との対立は終わらない。それは個々人が各目的を実現しようとすると衝突が起こるからであり、それを防ぐために多数の対人的自己により秩序としての社会が形成され社会的自己へと止揚される。社会的自己と社会は後者が自己の手を離れることによって対立が生じる。それは社会的自己が追求する自己の目的と社会が追求する全体的な目的にはギャップが存在するからである。そしてこのギャップが解消された、すなわち止揚されて「精神」へと至る。この段階ではわたしがわたしたちであり、わたしたちがわたしである理想社会である。つまり自己の利益を最大限に実現しようとするとそれが同時に社会全体の利益を最大にするような状態のことを意味している。そしてこの「精神」こそが、すべての矛盾と対立を乗り越えた弁証法的プロセスの終わりである。

またヘーゲル弁証法をもちいてどのように社会が発展し自由の実現度が高まってきたのかという点に着目し世界史を説明している。ヘーゲルによれば世界史とは理想状態である「精神」が徐々にだが不可逆的に姿を現すプロセスであると考えている。例えば東洋の帝国では皇帝一人だけが自由であり、次に古代ギリシアでは市民に自由が広がり、そのあとのキリスト教的中世社会はみな自由であったが理性的な社会制度を欠いていたとしている。そして啓蒙君主制プロイセンこそが最高の合理的システムと擁護した。精神の自由の自己表現は美→聖なるもの→哲学(概念)という段階を踏み、二番目の宗教段階で神について時代遅れと見なしているものの相対的に一定の評価は与えられた。