Nigorobuna’s blog

普段の講義や本を読んだり人と話したりしたことについて

花瓶、鏡

 鏡像段階についてのラカンの図の説明を試みる。

主体は全身を観測できないので斜線が引かれる。しかし鏡である他者を用いることで自身を見ることが出来る。しかしこの像は他者の承認を得てはいない。

手前にある花々は目、鼻、口、手、足を意味している。(対象そのもの)これらはバラバラで統一されていない。しかし鏡に加え凹凸鏡を用いるつまり母に抱かれることで花瓶に花が生けられる。これによってバラバラだったものは統一され自我が出来る。しかしその自我は虚像に過ぎない。

鏡は移動させることが出来る。すなわち他者が常に現前するとは通常考えられない。

 

しかし理系の人によれば図のようにきれいに像が出来るかどうかは怪しいとのこと。

大学での神話論

 『エヌマエリシュ』を読んだ。わけわからん話だった。おもしろいか?これ

聖書は最近よく参照するがさすがにすべては読めていないです。

聖書の解釈は宗教によってもその時代によっても変わってくる。その解釈を見ているとその時代で彼らにとって何が問題とされていたかが映し出されてくる。また解釈は信者の議論をそのまま登場人物が語り合っているように見える。強引な所もおおいが。神話はそのまま読んでも腑に落ちないところが多くある。起源神話とされるものが他の文化によって非難され優劣をつけることが行われたし現在でもあるのだろう。神話と呼んでもいいものは確かに哲学にも言えることであり悩ましい。さて倫理の目的論的停止は確かにこのところにおいて問題である。良いとか悪いとかを超越した力を及ぼすという宗教、神話の危うさ。カルト宗教にも言えるが。例えばイスラームでは生活と政治に密接に関わる。政教分離を掲げる我々からすると非合理、間違っているように見える。しかし彼らから見たら何もおかしくないのだ。多様性というのは固有のモノそれぞれの性質であり必ずしも万人が理解できるものでもない。とすると自然法は何処にあるのだろうか。そんなものがあるあったの話こそ神話にすぎない気がする。

二つの原則と奇跡

 快感原則と現実原則を簡単に述べると 『精神分析入門』(フロイト)から

快感原則は刺激をなくすことを目標とするが、それはシニフィアンのシステムそのものでありいくつもの書き換えを経る。刺激即反応にならないのが人間の宿命である。

現実原則はこれは自我での領域だが、刺激に反応せず待つことである。それはしばしば環境によって要請される。そしてこれは子供には実践し難い。

人間の本質は遅延にあると先生が言っていた意味はこのことだろう。そして現実原則は「奇跡」を人に与えるのだとも。

その「奇跡」は極めて物理的なものである。他者の死、出会い、事件などそれは人が本来は支配できるものではない。予知すら困難かもしれない。

快感原則は現実原則に劣るという見方はどうも好かない。そもそもこんな事は精神分析を時代遅れの遺物だと考えている人にとってはどうでもいいのかもしれないが

奇跡という言葉はいかにも認識論的な印象を与えるので賛否が分かれるにしても最後に救ってくれるのは死か知か奇跡しかないとは確信できる。

 

ヘーゲル 講義まとめ

 100分で名著は今月は『精神現象学』でした。見ましたか?日常でみんなが感じることは全てヘーゲルに書いてあると先生が言っていました。難しい本ですが頑張って読みたいですね。あとその番組の講師は斎藤さん。そういうわけで『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』を読んでみました。弁証法的人間というのはこういう人なのかなとしみじみと感じる。『人新世の資本論』読まないとまずい。そのうち読みます。以下講義まとめ

 ヘーゲル弁証法を発見し生成プロセスの論理的表現を試みたドイツの哲学者である。弁証法は“対話”を意味する言葉でソクラテスの問答法がもととなっている。この問答法はアリストテレスからは不確かな推論、カントからは経験を越えた不当な推論とまでこき下ろされたがヘーゲルはこれを肯定し弁証法を見出した。

また初期のヘーゲルが考案した「12のテーゼ」の中で「矛盾は真理の規則であり、非矛盾は虚偽の規則である」という「矛盾律」とのちに呼ばれるものは弁証法と大いに関連している。これはアリストテレス以来の「無矛盾律」に対立するものであり事物に動き、矛盾を見出す点において弁証法の登場に先駆けていると言える。この事物の動きや生命力に注目する考え方はヘーゲル有機体的自然観に由来する。

弁証法は正・反・合の図式が一般に知られるがこれはヘーゲル自身が唱えたものではない。ヘーゲル弁証法は自己運動(変化)のプロセスを一般に図式化したものである。まずAと¬Aという矛盾する二つが存在しこの対立が均衡となるBが見いだされる。しかし¬Bにも潜在的な矛盾がすでに存在しているとヘーゲルは考えている。この自発的運動において“疎外”というものが必要となる。“疎外”とは現在の自分の規範から距離をとる、言い換えれば反省をすることである。このことにより他者を存在させて新しい社会・共同体を作り出していくことが出来る。話を戻して、弁証法は上の様に進展していくのだがこれによって生み出される新たな概念は対立する二つにとって包括的・共通概念である。このプロセスは永遠に続くのではなく対立概念が存在しない究極の共通概念に到達したところで停止し、これを「本質」とヘーゲルは呼んだ。

自己実現(自己の社会化)のプロセスとして弁証法は具体的にどのような過程を経るのであろうか。ヘーゲルによればそれは複数の段階から成っている。まず他動者(自動者によって運動が受動的になされる者)と自動者の対立が存在する。これは感覚意識者にとって感覚意識対象であるとみなされることによって止揚される。次に感覚意識者と感覚意識対象の対立は経験的な自己(被反省者)へと止揚し、それから超越論的主観(反省者)と対立し止揚されて即・対自自己(自己反省の主体と対象の交替を無限に繰り返すもの)になる。しかしこの自己にとってあたらしく同質な存在として他者があらわれる。ここで二つの間での支配を巡って争いが繰り広げられるが、自己以外の存在を認め対等な立場と見なし合うことで対人的自己へと止揚する。このことをヘーゲルは「主人と奴隷の弁証法」により説明している。次に対人的自己となっても対人的他者との対立は終わらない。それは個々人が各目的を実現しようとすると衝突が起こるからであり、それを防ぐために多数の対人的自己により秩序としての社会が形成され社会的自己へと止揚される。社会的自己と社会は後者が自己の手を離れることによって対立が生じる。それは社会的自己が追求する自己の目的と社会が追求する全体的な目的にはギャップが存在するからである。そしてこのギャップが解消された、すなわち止揚されて「精神」へと至る。この段階ではわたしがわたしたちであり、わたしたちがわたしである理想社会である。つまり自己の利益を最大限に実現しようとするとそれが同時に社会全体の利益を最大にするような状態のことを意味している。そしてこの「精神」こそが、すべての矛盾と対立を乗り越えた弁証法的プロセスの終わりである。

またヘーゲル弁証法をもちいてどのように社会が発展し自由の実現度が高まってきたのかという点に着目し世界史を説明している。ヘーゲルによれば世界史とは理想状態である「精神」が徐々にだが不可逆的に姿を現すプロセスであると考えている。例えば東洋の帝国では皇帝一人だけが自由であり、次に古代ギリシアでは市民に自由が広がり、そのあとのキリスト教的中世社会はみな自由であったが理性的な社会制度を欠いていたとしている。そして啓蒙君主制プロイセンこそが最高の合理的システムと擁護した。精神の自由の自己表現は美→聖なるもの→哲学(概念)という段階を踏み、二番目の宗教段階で神について時代遅れと見なしているものの相対的に一定の評価は与えられた。

カント 講義まとめ

 久しぶりの投稿になります 講義のまとめ

カントは超越論的観念論を唱えた啓蒙主義者であるので、「啓蒙主義」と「超越論的観念論」のこの2つと「神と道徳」の以上3つについて説明をまとめる。

第一に「啓蒙主義」である。その前にカントは西欧哲学の機能主義的人間観を引き継いでいる。プラトンが理性は頭にあり情緒は胸にあり感情は腹にあるとしたように人間は複数の機能の集合体であるとカントも考えていた。話を戻して啓蒙とは光をもたらすという意味である。この光は普遍理性のメタファーで人間に普遍的に備わっている理性のことだ。理性は二つの種類に分けられる。ニュートン力学を成す理論理性と道徳を成す実践理性である。啓蒙主義はこの理性を偏重する。それによって神の役割は制限され自由で平等な基本的人権を持つ主体的な自己を主張した。啓蒙主義は平等の観点から奴隷制を否定し理性を育てるための教育を重視したが同時に教育は半強制的な競争の場となり理性を持たない自然や動物を軽視する人間中心的な見方を強化し同時に知的能力が欠けるとみなした精神疾患者を差別・排除するような知性を過度に尊ぶ能力主義社会をもたらしたとも言える。また近年では人工知能といった人間の知性を越えるものが現れる可能性があり啓蒙主義的人間観の立場ではこの時に人間の理性の優位さが失われ人間の尊厳とかけがえなさが脅かされることになる。

第二に「超越論的観念論」である。まずカントの考えでは世界は我々の主観なしには何も定まっていない。世界の外にある主観が世界に因果律をもたらし神ではなく自然法則、理性によって世界の形が決定される。これが観念論であるが「超越論的」とはどういう意味だろうか。“超越”とは経験の領域を越えていることを意味する。カントにとって経験されたものとはbeliefではなくknowledgeである。この二つの違いは、前者は証拠つまり直接目の前で手の届く範囲で見ることが不可能だが後者は可能ということである。そしてカントに依れば認識は可能だが経験は出来ない領域が存在するこれこそが超越論である。また超越的領域には「水平な外部」(空間的、時間的に遠いもの)と「垂直な外部」(主観、物自体)の二つがある。そしてこの主観は世界の外に存在し混沌たる世界にまとまった印象あるいは連関をあたえるので「超越論的主観」と呼ぶ。しかしまたこれをカントは客観的であるという。なぜなら必然的であるということは客観的であると言えるからである。そして主観すなわち我々の自己は常に同一である。この主観・自己が存在するかどうかについてカントは超越論的論証を試みた。それは以下である。彼の自然哲学によればニュートン力学(の一部)は経験的に絶対確実なものであるという前提を置く。次に懐疑されるものとして主観構成すなわち主観が世界を形作ることを置く(経験を主観が構成)。それから二つの命題をたてる。1つめ「主観構成ならばニュートン力学は絶対正しい」主観によって世界が形作られるときに用いられる規則、因果律だと思っているものはニュートン力学で具体化されているのでこれは真である。2つめ「主観によって世界が形作られないならばニュートン力学は絶対ではない」もし主観によって世界が形作られないときにニュートン力学が絶対正しいならその理由は全て世界の出来事がニュートン力学に偶然一致しているか神によって世界が調律されているのか二つであるがこれはあり得ないとして退ける。よって2つめの命題も真である。以上により主観構成は真である。とカントは主張した。「主観構成」は経験出来ないが、論証可能つまり真であるので前に述べた定義に則り超越論的と呼ばれる。加えて超越論的なものの例として先に主観と物自体の二つを挙げたが後者については不可知であるが存在は否定しないという立場をカントはとっている。

最後にカントにとって「神と道徳」はどういった存在なのかについてまとめる。道徳とは神の命令によってなされるものではなく理性によって自律的に実践するものである。またそれは誰にとっても普遍的な法則であるべきである。カントにとっての「あるべき」世界は還元不可能性から現実に「ある」世界に根拠を持っておらずそのため理論理性とは別の「あるべき」世界を形作る実践理性の存在が必要である。それは物理的因果性に縛られない「自由」(意志に原因はないこと)を持たなければいけない。「あるべき」世界を作っていくための現実における規範性は良心にある。良心は規範の由来であり同時に善悪の証拠でもある。しかし実際の世の中では誰もが目的として扱われる「目的の王国」や完全な福徳一致は実現していない。ここで神が必要となる。物自体を抜きで世界を語れるがつまり「神」抜きで世界を語ることが出来るが神による来世の幸福を信じたほうがよいとした。来世で善人は報われ悪人は罰を受けることにより世界にバランスを与え道徳・善の実現を目指すことが出来る。加えて「あるべき」世界へと近づける我々の道徳的使命の遂行は無限に続き不滅である。 西欧におけるキリスト教的世界観の中心であった神は世界のあらゆる根拠として君臨してきたが、道徳を実現するために普遍理性によって要請されるにすぎないひとつの触媒になった。つまりまとめると神は聖域に幽閉された。

 怪しさ満点のレポートが完成しましたがなんとか書けました。大変だった…カントの本もほぼ読めてないから苦労した。参考文献?レジュメしかありません!

ユダヤ教と聖書

 高校生の時、聖書について「新約聖書」と「旧約聖書」について世界史の授業で習った人は多いと思います。ところでこの”約”という漢字ですがこれは神との契約を意味しています。

 このことは知っていたのですが最近レポートを作るのにあたって本を読んでいるとすごいことを知りました。それはもともとヘブライ人は唯一神を信仰していなかっただろうということです。それはこの契約にも関係しています。

 ではどういうことか?本には挙げられてないですが古代ギリシアが良い例だと思います。ギリシャ神話には沢山の神がいますがアテナイでの守護神は名前を見ればわかりますがそう女神アテナです。アポロンやゼウス、ポセイドンといった神々も当然存在しますがその中でもその街ではアテナが重要であったということです。ヘブライ人も同様に族長であったアブラハムの守護神、イサクの守護神がバラバラにあったという訳だそうです。それをモーセ十戒を授かったときそれは出エジプトのときに民族を団結させるため半ば強引に神々を代理、統合し唯一神をたてた。もちろん反発もありましたが後に全部族が統合されイスラエルの民となった。神から授かった十戒が契約になります。彼らにとってなぜ厳しいはずの契約が大切なのかというとここでは民族的な団結のためです。だからユダヤ教は本質的に世界宗教にはなり得ないということになる。(はじめレポートでは一神教について書こうと思ってたんですが少し考えを改めないといけない)

学ぶときに大切にしていること

 大学でものを学ぶときに大切だと感じたもの。それは興味である。これ以上に重要なものはない。興味は授業を聞く姿勢と自主的な学びの向上につながる。逆にこれがないものを専門にするとやっていけない。

 よく解説書、入門書ばかり読んでいてはダメだ、原典でないといけないという人がいるはそれは少し違う。確かに原典の持つ圧倒的熱量に触れることは興味を持つ際に大事なのは認めるがなにも原典から始める理由はない。また解釈がわずかにずれていたとしてもそれを許容する態度は必要であると思う。一子相伝めいたことを行うのは大学の場にふさわしくない。閉鎖的で可能性を潰すから。ただし歪曲、曲解は除く。純粋理性批判途中だったので読みます。一時、構造と力は後回し。