Nigorobuna’s blog

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カント 講義まとめ

 久しぶりの投稿になります 講義のまとめ

カントは超越論的観念論を唱えた啓蒙主義者であるので、「啓蒙主義」と「超越論的観念論」のこの2つと「神と道徳」の以上3つについて説明をまとめる。

第一に「啓蒙主義」である。その前にカントは西欧哲学の機能主義的人間観を引き継いでいる。プラトンが理性は頭にあり情緒は胸にあり感情は腹にあるとしたように人間は複数の機能の集合体であるとカントも考えていた。話を戻して啓蒙とは光をもたらすという意味である。この光は普遍理性のメタファーで人間に普遍的に備わっている理性のことだ。理性は二つの種類に分けられる。ニュートン力学を成す理論理性と道徳を成す実践理性である。啓蒙主義はこの理性を偏重する。それによって神の役割は制限され自由で平等な基本的人権を持つ主体的な自己を主張した。啓蒙主義は平等の観点から奴隷制を否定し理性を育てるための教育を重視したが同時に教育は半強制的な競争の場となり理性を持たない自然や動物を軽視する人間中心的な見方を強化し同時に知的能力が欠けるとみなした精神疾患者を差別・排除するような知性を過度に尊ぶ能力主義社会をもたらしたとも言える。また近年では人工知能といった人間の知性を越えるものが現れる可能性があり啓蒙主義的人間観の立場ではこの時に人間の理性の優位さが失われ人間の尊厳とかけがえなさが脅かされることになる。

第二に「超越論的観念論」である。まずカントの考えでは世界は我々の主観なしには何も定まっていない。世界の外にある主観が世界に因果律をもたらし神ではなく自然法則、理性によって世界の形が決定される。これが観念論であるが「超越論的」とはどういう意味だろうか。“超越”とは経験の領域を越えていることを意味する。カントにとって経験されたものとはbeliefではなくknowledgeである。この二つの違いは、前者は証拠つまり直接目の前で手の届く範囲で見ることが不可能だが後者は可能ということである。そしてカントに依れば認識は可能だが経験は出来ない領域が存在するこれこそが超越論である。また超越的領域には「水平な外部」(空間的、時間的に遠いもの)と「垂直な外部」(主観、物自体)の二つがある。そしてこの主観は世界の外に存在し混沌たる世界にまとまった印象あるいは連関をあたえるので「超越論的主観」と呼ぶ。しかしまたこれをカントは客観的であるという。なぜなら必然的であるということは客観的であると言えるからである。そして主観すなわち我々の自己は常に同一である。この主観・自己が存在するかどうかについてカントは超越論的論証を試みた。それは以下である。彼の自然哲学によればニュートン力学(の一部)は経験的に絶対確実なものであるという前提を置く。次に懐疑されるものとして主観構成すなわち主観が世界を形作ることを置く(経験を主観が構成)。それから二つの命題をたてる。1つめ「主観構成ならばニュートン力学は絶対正しい」主観によって世界が形作られるときに用いられる規則、因果律だと思っているものはニュートン力学で具体化されているのでこれは真である。2つめ「主観によって世界が形作られないならばニュートン力学は絶対ではない」もし主観によって世界が形作られないときにニュートン力学が絶対正しいならその理由は全て世界の出来事がニュートン力学に偶然一致しているか神によって世界が調律されているのか二つであるがこれはあり得ないとして退ける。よって2つめの命題も真である。以上により主観構成は真である。とカントは主張した。「主観構成」は経験出来ないが、論証可能つまり真であるので前に述べた定義に則り超越論的と呼ばれる。加えて超越論的なものの例として先に主観と物自体の二つを挙げたが後者については不可知であるが存在は否定しないという立場をカントはとっている。

最後にカントにとって「神と道徳」はどういった存在なのかについてまとめる。道徳とは神の命令によってなされるものではなく理性によって自律的に実践するものである。またそれは誰にとっても普遍的な法則であるべきである。カントにとっての「あるべき」世界は還元不可能性から現実に「ある」世界に根拠を持っておらずそのため理論理性とは別の「あるべき」世界を形作る実践理性の存在が必要である。それは物理的因果性に縛られない「自由」(意志に原因はないこと)を持たなければいけない。「あるべき」世界を作っていくための現実における規範性は良心にある。良心は規範の由来であり同時に善悪の証拠でもある。しかし実際の世の中では誰もが目的として扱われる「目的の王国」や完全な福徳一致は実現していない。ここで神が必要となる。物自体を抜きで世界を語れるがつまり「神」抜きで世界を語ることが出来るが神による来世の幸福を信じたほうがよいとした。来世で善人は報われ悪人は罰を受けることにより世界にバランスを与え道徳・善の実現を目指すことが出来る。加えて「あるべき」世界へと近づける我々の道徳的使命の遂行は無限に続き不滅である。 西欧におけるキリスト教的世界観の中心であった神は世界のあらゆる根拠として君臨してきたが、道徳を実現するために普遍理性によって要請されるにすぎないひとつの触媒になった。つまりまとめると神は聖域に幽閉された。

 怪しさ満点のレポートが完成しましたがなんとか書けました。大変だった…カントの本もほぼ読めてないから苦労した。参考文献?レジュメしかありません!