Nigorobuna’s blog

普段の講義や本を読んだり人と話したりしたことについて

カウンセリングの意義と存在

 はじめてのブログです。見てくれた人にはこんにちは!

 まずカウンセリングは「自身の感情を言語化あるいは具現化する手助けである」という認識を自分は持っています。様々な技法、アプローチこそあれどこのことは共通すると思われます。悩みを持たない人はほぼいないと思いますがカウンセリングを利用したことのある人はそう多くないでしょう。理由としてやはり多いのは「赤の他人に自身の大切な話をしようと思えない」だと思いますが、自分としてはこれこそがカウンセリングが存在してもよい唯一の意義であると考えます。

 カウンセリングがなぜ現在これほど人気があり、学生の間でも心理学というと臨床をやりたがる人が多いのかというと「即効性あるいは実用性」にあります。精神分析(日本で流行らなかったのでこれについて言及しないし含めない)は時間もお金もかかるので廃れていきました。一方で巷のカウンセリングは即効性を見込まれて学校や会社や自治体で相談所なるものが多くあります。カウンセリング、「心のケア」が世に広まる前はカウンセラーの役割は親や先生、友人、同僚、地域の知人など我々の日常生活に深く関わっている人が担っていました。彼らに相談したからといって料金を支払うことはまずないですが、カウンセラーにはお金を払っています。直接でなくともそれは税金を介して支払われています。彼らはこの点においてプロフェッショナルといえます。

 金を払うことはすなわち資本主義市場に組み込まれていることになります。ここで即効性が問題になってきます。学校にあるカウンセリングルームについて想像してみましょう。カウンセラーは学校から不登校の生徒の数を減らすように、つまり不登校の生徒を学校へ連れてくることが期待されます。さあ見事に一人の不登校児が学校へ足を運んでくれました!あぁ、めでたしめでたしでしょうか?不登校の生徒が学校に来なくなった理由が彼らの人間関係に原因があったとします。カウンセリングによって変化が起こるのは生徒の認知のみに限られていて周囲の関係は放置されています。あえていうなら周囲の関係改善が不十分であった為に学校に来れなかった生徒を恣意的に適応させたということです。本質からずらす作業に見えます。即効性を求めれば求めるほど、本当にやらねばならなかった事からずれたことになります。最たる例は「悪い菌(架空)がいて君を学校に行こうとするのを止めるのだ、だからそれをみんなでやっつけよう」といったものです。そもそも学校へ行かせようとしているカウンセラーに対して学校へ行きたがらない生徒が相談するという構図について見てみましょう。生徒はカウンセラーを信頼できるでしょうか?生徒には学校にいけないことについて罪悪感を持っていることもある。この感情を利用する(カウンセラーは不可避的に強者、多数者の側であり子供は大人の顔色をうかがうということ)のではなく学校に行かなくても何か別の方法を社会が用意する必要もある。税金や企業からのお金で動いている以上は結果を出さなくてはならないから大多数の人間にクライアントを素早く適応させる役割をカウンセリングが果たすのは仕方のないことです。程度は変わってくるが個人や病院のカウンセリングでもこのことからは逃れがたいだろう。

 カウンセラーを職業にしているのはきっと優しい人です。人の辛さや苦しみを聴くという仕事を選んだ人間というのはそういう人達なのだと信じている。だからこそ前述のことが気にかかる。

 カウンセリングが安定した地位を資本主義の世の中で獲得するために、本質からずれる羽目になってしまったのだと結論付けておこう。言いたいのはカウンセリングを諸手をあげて導入するのをやめて、カウンセリングが存在するのはやむにやまれないが出来るだけ自前で根本から解決していこうという姿勢であるべきだということだ。「専門家に任せておけば安心だ。我々は余計なことをしたり言ったりしてはいけないのだ。」という傍観者の態度が問題を解決から遠ざけている。

 ただカウンセリングの赤の他人であるという点については利点になりえる。辛いことがありそれを周囲の人に伝えることに迷惑をかけるのではないかと心配になる人もいるだろう。残念なことに周りに相談できる人が見つからなかった時もあるだろう。金で動いてくれるカウンセラーはこの場面において有効であろう。守秘義務を守ってくれることも重要である。個人的な体験についていろいろ割愛するが、かつて偶然オンラインゲーム上で不登校児であることを自ら明かし話をしてくれた子がいたがきっとそれは私が信頼できそうな赤の他人だと感じてくれたからではないだろうかと大学でこのことについて考えるようになって思った。でもその時の私はもちろん料金をとるわけでも誰かに頼まれたわけでもないが彼の話を聞きそして長い時間おしゃべりした。一度きりでも何かの縁だと思った。

 以上である。少し長くなりました。まとめ:一人一人が向き合い助け合うべき課題を効率や面倒を避けるために専門性というものを作って逃げてしまった。どのように人や出来事と関わって生きていくかということについて参考になる本や思想はあってもいいが、押し付ける形になってはいけない。カウンセラーはこのことについて支持しているが実体としては述べたように構造からして逆のことをせざるを得ないのでは?

 

所詮はあるひとりの大学生の戯言に過ぎないし意見もこの後で大きく変わるかもしれないがこのようなことに関心を向けて勉強してみるのも無駄ではないと確信している。最後まで読んでくれた方には反対意見でも賛成意見でもなんでも気軽にコメント書いてくれると勉強になります(^^)