Nigorobuna’s blog

普段の講義や本を読んだり人と話したりしたことについて

シニフィアンをシニフィエで割る!?

 「知」の欺瞞という本において批判されたラカンが行った割り算

S/s=s にS=-1を代入するとsが虚数になる 

 これについてですが、常識的に考えてシニフィアン(S)をシニフィエ(s)で割ることは出来ないのである種のたとえ話であるのは理解してもらえると思う。向井雅明さんもたとえ話であると書いています。でも正直わかりやすいかいうと前後の文脈を知っていてもはぁ…そうですか…という感じ。わかりにくい。そもそも「/」は分数の記号ではなく”裂け目”を意味するものでなぜラカンが割ったのかというと多分かたちが似ていたからに過ぎない。批判されても止む無し。

 大学の先生もヤバい発想とおっしゃっていた。ラカンはこのことで言語学の人に怒られたそう(これに関しては記憶が定かではない)そうだとすると2000年頃になって批判されるのは今更感があるかも。またラカンの弟子が似た事を行った際に彼は注意あるいは批判をしたのだがこれは自分のはたとえ話だから大丈夫ということなのだろうか。そうでなければダブルスタンダードになる。

 「知」の欺瞞では数学、物理の考えを現代思想に持ち込んで読者を混乱させる、煙にまくことを非難している。また持ち込む際に誤りがあることも非難している。ただこの一件はセーフかアウトか、非難すべきかそうでないか、というより狂気的な思い付きによる単にわかりにくいたとえ話だと自分は思う。ラカンが読者を混乱させようとしたとは考えにくい。というのもまだ話が簡潔だからである。

 それにしても現代思想が難しいのは一体誰の仕業だろうか?問題の本が書かれた経緯なのだが。ラカンなら突然出てくる数式と数学の用語、独自の専門用語と意味の変化、日常語だけど意味が違う単語(専門用語でも)、いかついグラフ、癖の強い文体などざっとこんなところか。役満。すくなくとも数式とか数学の用語は所詮たとえなので別にこだわらなくていい気がする。著者が平易に書くことに努めるのはもちろんだがそれ以外は読者側が頑張るしかない。もしくは誰かがわかりやすい本を書いてくれるのを待つ。生きてたら本人に聞く。でもラカンの発言見てると多分聞いても自分は理解できない気がする。

 ラカンの言葉はかっこいいのでよく引き合いに出されるが、前述したとおり意味が通常と異なっていることが多く誤った理解が広く見られる。ただたとえ解釈が誤っていたとしてもその人がラカンの言葉から何か発想を得たことは確かなので無意味だと非難するつもりはさらさらない。果たして学部にいる内に原典をすらすら読めるようになる日は来るのだろうか?

チャットアプリを使ってみた! と なぜ文学部に来たのか?

 チャットアプリを入れてみると「有名大学に入りたい」みたいなところがあったのでやってみた。

 なんと自分の通っている大学がその少年の第一志望らしい(笑) 偶然にもほどがあるがこういうネットチャットの醍醐味だろう。少年は高校受験で失敗したのでそのリベンジを果たしたいそう。有名大学を目指す理由は人それぞれだ。似た動機で受験したという先生もいた。特に理由がない人もいる。

 私は実のところ高3の冬まで学部は決めていなかった。しかしある事件をきっかけに文学部を目指すことになる。詳しくは言えないがその答えを探せる場所を求めた結果として文学部を選んだ。案外すぐに満足のいく答えは得られたと思う。得られたというか目をそらし続けていたといった方が正しいかもしれない。同じ授業で、あるいは文学部で出会った友人たちと先生の導きに感謝している。どこに行くかなんて大した問題ではないと思う。(学べることや就職先が変化するのは確かに考慮すべき点だが)単なる受験勉強の終着点に過ぎない。それよりどう過ごすか誰と出会うかの方が重要だろう。それはつまり何を食べるかより誰と食べるかの方が食事を楽しむのに大事なのと同じことだと思う。

『人はみな妄想する』著:松本卓也 を読み直す 3日目

 昨日に引き続き読み進め50年代のラカンのところが終わった時点で「なるほどなるほど」と調子良く読んでいただけにそういえば対象aや享楽といった単語がまだそんなに出て来てなかったことにはっとさせられた。60,70年代がまだだった。エディプスコンプレックス、父の名が話の中心だったことを考える確かに道半ばである。でもすでにこの本の半分以上は読み終えたのでよし。今回もかなりわかりやすかった。

 まだ2,3日はかかりそうです

『人はみな妄想する』著:松本卓也 を読み直す 2日目?

 はい。一日空いた気がしますがそれは思い過ごしです。エディプスコンプレックスの章の手前に来ました。相変わらず感想を書けと言われても困る内容。「現実界」の用語理解が深まったかも?

 てかこの本も多少は現代思想をかじってないとしんどいと思う。いきなり脱構築とか出てきても理解できないし。あと集中が続かないので読んでいるうちに流れを忘れてしまいそうになるのが辛い。

 しかしラカンフロイトはどういう思いで研究、治療してたのだろうか?やっぱり面白かったのかなあ?こう後の時代の本を読んでいるだけでも興味が出てくる(特に具体的な症例とか)のだから実際に分析に関わるともっと興味をそそられるかもしれない。

 明日はもう少し読もう

『人はみな妄想する』著:松本卓也 を読み直す 1日目

 『現代思想入門』(千葉雅也)でも新世代のラカン研究者として出てきた松本先生の本を読み直します。大学に入ってすぐこの本を買ったのですが、「構造主義って何だっけ?」「精神分析ってフロイト?」「ラカン?聞いたことはあるけど誰だろう?」といった具合で満足にこの本を読み進められたとは言えませんでした。だから今から読み返そうと思う。(それに授業に潜っていたからレジュメもある)現在100ページほど読みました。

 今のところ気を付けるべきところはラカンにおける転移の意味。p98にある。転移のシニフィアンの出現。神経症と精神病の違いがいくつも出てきたので整理する。抑圧と排除。表象の心的加工の有無。隠喩と転移の有無。あと第一部は割と難しかったけど解った。この調子なら読み切れる気がする。ちんたらしていると忘れてしまうので数日の間に終わらせてしまおう。

「個」の時代と自分探し その3

 ボランティア活動をしても一人旅をしても、何気ない日常の中で「自分はこのままでいいのではないか?」なんて考えたとしてもそれが自分探しと呼ばれるとは限らない。自分探しはあくまでも「本当の自分」を見つけ出すことが重要視される。ここで前回述べた自分探しについての第三の点について見なおそう。

3:自分探しは現在所属する共同体から心理的または物理的距離をおいて行われる

まずこれは必要条件だろうか?それとも単にこのような事例が多いだけであろうか?

 先に少しだけ紹介した自己物語についてだが、自身のライフスタイルが自分探しの行動へと中心が移っていくことによって自己物語が書き換えられるとのこと。満江亮(2012)で挙げられた旅にしても大学生活から長期の旅へとライフスタイルがその期間中は変化している。自分の認知していないことを探すためには出来るだけ普段の生活から離れたほうが良いと考えているだろう。また否定的感情が原動力ならば現在いる共同体から距離をとろうとするのは自然である。

 共同体から出て何を彼らが行うのかというとまた新しい共同体を作成するのである。それは以前のものの様に確固たるものではないかもしれないが他者との交流がある。その2で自己を形成するには他者が必要であると述べた。別に今いる共同体から物理的に離れて自分探しなどしなくてもそれこそ隣に座っている人に話しかけたり、ジョギングでもしてすれ違った人と話すとかでも十分ではないか?このことを踏まえると第三の点は必要条件であると決定づけられよう。

 自分探しがこのような二つ、「本当の自分を見つけること」「現在所属する共同体から心理的または物理的距離をおくこと」で新しく定義された。

 前者に対してはその2で述べた。後者に対しては良いも悪いもあるのでもうここでは扱わない。ただ定義というよりどういう要素で出来ているのかといった方がいいかもしれない。

もうすこし距離を置くことについて考えたいがどうもいい展開が思いつかないので曖昧になってしまって満足しないが今はここで終わりにします。また思いついたら書くかも

 

「個」の時代と自分探し その2

 自分探しの定義は前回の冒頭で述べたものでは考察しにくい上に不明瞭。よって改めて定義しなおしていく。

1:自分探しとは「本当の自分を見つける」ものと「自分の新しい能力の発見、その向上を目指す」ものに大別される

2:前者の自分探しの方法はボランティア活動または旅が主である

3:自分探しは現在所属する共同体から心理的または物理的距離をおいて行われる

第一の点について今は理由を省略するが前者は達成不可能で、後者は達成可能である。第二の点については非日常性が重視されている。第三の点については参考となる資料が見つからないのでここで論を組み立てていく。

「自分の新しい能力の発見、その向上」についてこれは"その1"で扱った自己啓発に酷似しているので既に語られている。酷似しているが故にこの意味で自分探しという言葉はあまり使われないと思われる。それ加えてに前者に含めてしまってもいいと言える。自分探しとは自分が認知できていない自分を探すものと言い換えることが可能であるからである。では前者の「本当の自分」とは何であろうか?

 

 「本当の自分を見つける」とは認知されてこなかった自分を発見し既存のものと統合することと定義できる。ヘーゲル弁証法にそっくりではないか!現在の自分に対しての違和感が自分探しへと人々を向かわせる。そして今までとは異なる自分の在り方を見つける。そして統合する。これを繰り返せば絶対知ではないが「本当の自分」に辿り着く。しかしラカンがいう去勢コンプレックスを考慮すれば上記のことは達成されることはなく永遠に終わらない。なぜなら「本当の自分」は認知の向こう側にあるからだ。そもそも自己を不変のものとして考えることに無理がある。自己とは他者のイメージを寄せ集めて形作られるからだ。であるなら「本当の自分」を捉えるというのは原理的に不可能だ。

 このような分析的なまなざしは自分探しに向けられるものの典型で懐疑的で否定的なまなざしである。自分探しはその定義の上では実現できないとわかった。ではなぜ不可能であるはずの自分探しを行うのかそこまで遡ってみよう。

 まず自分探しはアイデンティティ探しではない。言葉がそのように使われていることと定義の二番目と三番目を組み合わせて考えると現在のアイデンティティに対する否定的感情が原動力となっているだろう。自分探しはいまだかつて存在しない自分のアイデンティティの確立が目的ではなく、現存するものに対する保証材料を探す。あるいは打破し別のアイデンティティを打ち立てることである。否定的感情の出所については何となく読者の想像がつくところだと思う。我々は「自由」になり多様性を重視してきた。相対主義の名の下に真理は遠ざかり人々はまとまりを失いつつある。自分のことは自分で決めようと言われてもそれは大草原に一匹残された羊である。あちこちに行き先を示す看板が置かれていてどの道を選んでもよい。この状況で自分の進む道を迷いなく、躊躇わず行くことは出来ない。否定的感情は誰もが持つ普遍的ものである。「ある」と口にするときは「ない」可能性を常に抱えている。否定的感情を消すことが出来ないのであれば自分探しの旅に出たりボランティア活動をしたりすることを止められないかというともちろんそうではない。(この続きはその3にて)

 これまで自分探しについて主に議論が行われてきたのは、その不可能性と理由であった。その効果について述べられたものもある。例えば新 矢 昌 昭 ・渡 邉 秀 司(2004)で述べられた自己物語の書き換えである。「本当の自分」は見つからないにしても個々人の体験談では自分探しの副次的な恩恵。これまた例えば世界観のアップデートや異文化交流。しかし初めに述べた三番目の定義が自分探しを決定的に異質なものにしているように思われる。最後、"その3"ではここに焦点をおいて考えていこう。