Nigorobuna’s blog

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「個」の時代と自分探し その2

 自分探しの定義は前回の冒頭で述べたものでは考察しにくい上に不明瞭。よって改めて定義しなおしていく。

1:自分探しとは「本当の自分を見つける」ものと「自分の新しい能力の発見、その向上を目指す」ものに大別される

2:前者の自分探しの方法はボランティア活動または旅が主である

3:自分探しは現在所属する共同体から心理的または物理的距離をおいて行われる

第一の点について今は理由を省略するが前者は達成不可能で、後者は達成可能である。第二の点については非日常性が重視されている。第三の点については参考となる資料が見つからないのでここで論を組み立てていく。

「自分の新しい能力の発見、その向上」についてこれは"その1"で扱った自己啓発に酷似しているので既に語られている。酷似しているが故にこの意味で自分探しという言葉はあまり使われないと思われる。それ加えてに前者に含めてしまってもいいと言える。自分探しとは自分が認知できていない自分を探すものと言い換えることが可能であるからである。では前者の「本当の自分」とは何であろうか?

 

 「本当の自分を見つける」とは認知されてこなかった自分を発見し既存のものと統合することと定義できる。ヘーゲル弁証法にそっくりではないか!現在の自分に対しての違和感が自分探しへと人々を向かわせる。そして今までとは異なる自分の在り方を見つける。そして統合する。これを繰り返せば絶対知ではないが「本当の自分」に辿り着く。しかしラカンがいう去勢コンプレックスを考慮すれば上記のことは達成されることはなく永遠に終わらない。なぜなら「本当の自分」は認知の向こう側にあるからだ。そもそも自己を不変のものとして考えることに無理がある。自己とは他者のイメージを寄せ集めて形作られるからだ。であるなら「本当の自分」を捉えるというのは原理的に不可能だ。

 このような分析的なまなざしは自分探しに向けられるものの典型で懐疑的で否定的なまなざしである。自分探しはその定義の上では実現できないとわかった。ではなぜ不可能であるはずの自分探しを行うのかそこまで遡ってみよう。

 まず自分探しはアイデンティティ探しではない。言葉がそのように使われていることと定義の二番目と三番目を組み合わせて考えると現在のアイデンティティに対する否定的感情が原動力となっているだろう。自分探しはいまだかつて存在しない自分のアイデンティティの確立が目的ではなく、現存するものに対する保証材料を探す。あるいは打破し別のアイデンティティを打ち立てることである。否定的感情の出所については何となく読者の想像がつくところだと思う。我々は「自由」になり多様性を重視してきた。相対主義の名の下に真理は遠ざかり人々はまとまりを失いつつある。自分のことは自分で決めようと言われてもそれは大草原に一匹残された羊である。あちこちに行き先を示す看板が置かれていてどの道を選んでもよい。この状況で自分の進む道を迷いなく、躊躇わず行くことは出来ない。否定的感情は誰もが持つ普遍的ものである。「ある」と口にするときは「ない」可能性を常に抱えている。否定的感情を消すことが出来ないのであれば自分探しの旅に出たりボランティア活動をしたりすることを止められないかというともちろんそうではない。(この続きはその3にて)

 これまで自分探しについて主に議論が行われてきたのは、その不可能性と理由であった。その効果について述べられたものもある。例えば新 矢 昌 昭 ・渡 邉 秀 司(2004)で述べられた自己物語の書き換えである。「本当の自分」は見つからないにしても個々人の体験談では自分探しの副次的な恩恵。これまた例えば世界観のアップデートや異文化交流。しかし初めに述べた三番目の定義が自分探しを決定的に異質なものにしているように思われる。最後、"その3"ではここに焦点をおいて考えていこう。