Nigorobuna’s blog

普段の講義や本を読んだり人と話したりしたことについて

他者の気持ちがわかること

 他者の気持ちがわかることについてヤスパース的な「了解」ではなく相手の感情が感染、伝播してくることによってわかるのだと教わった。

 間主観性のなせる業ということだろう。共感するとは相手の言葉の文脈を自分に当てはめてみる能力だけに依らず我々が普遍にもつもので可能になっているということか。どの民族であってもつまりどのような歴史的、社会的な背景を持つ人々であっても笑顔というものは似ているのは不思議だがこういうもののおかげなのだろうか。

 最初のことに似た話がたまたま手元にある論文にも書いてあった。ここでも精神分析が顔を見せていてこの学問の豊かさを感じる。ちなみに「了解」ではなく「解釈」となっている。(斎藤環先生)

 さて精神疾患の軽症化について論文が載っているものを見つけたのだが、(勉強不足故知らなかったが精神疾患はどうやら軽症化しているらしい)精神疾患(うつ、統合失調症など)そのものが社会の影響を強く受けるという主張が多い。もちろん早期受診のおかげにすぎないのでは?薬の発展が原因では?見かけだけでは?というのもある。エディプスコンプレックスは不変不滅でないという主張もこういう論文を見るとああなるほどと思ってしまう。それとどの専門家も軽症化したからヨシ!という態度ではないというのは共通していた。

哲学史と哲学

 哲学の授業と哲学史がごちゃ混ぜになっている気がする。哲学史を聞いて哲学をやりたい、本をもっと読みたいと思う人はいないと思う。はっきり言ってつまらない。哲学は思想の新鮮さとその視野、考え方が広がった感動こそ伝えなければやる意味もない。知識だけを淡々と伝えるだけでは流行らないし時代遅れだ。 もっとも現代人には当たり前すぎて感動できないことが多いのも事実である。

民主主義を揺るがす暴挙とは?

 昨年の故安倍元首相襲撃事件に引き続き岸田首相の暗殺未遂事件が起きた。各種メディアはこれを民主主義を揺るがす暴挙だと、暴力を持って政治を変えようとしてはならないと口をそろえて言っていたがそれだけではいけないのではないか。

 なぜこのように暴力に訴える人がいるのかというとこの「民主主義」に則った社会でうまく処理できないことがあるからであり、少なからず歪んでいるからだ。もちろん今回のようなテロは暴力を用いてもよいとの空気を世に広めるのを加速させたという意味で良くないのだが、メディアにいる方々は今の社会が無謬のものであると夢を見ているのだろうか。犯人個人の背景や動機に執着してばかりで社会を良くしようという気持ちはあまりないように見える。民主政治の世界は我々が常に今の社会の位置を批判的にみて改良を模索しなければあっという間に衆愚政治に陥るのだがどうだろう。まさか記者たちは暴力はいけないということを知らない人が今回と前回の事件を引き起こしたのだと本気で考えているのだろうか、当たり前のことを言うのを止めはしないがもう少し何とかならないかな。もっとも暴力はだめだという禁止を過剰に行うことは暴力を防ぐのに有効であるのかそうでないのかも検討しないとだめだろう。自殺希望者が自殺駄目だよと事情も知らない他人から気軽にいわれて本当に自殺を辞めるのかというのと似ている。こういうことは多分誰かがすでに研究していそうではある。個人的な予想では逆効果だと思う(知らんけど)

 大けがを負った人はいないようなのでそれは良かったですね

『構造と力』を読む 序に代えて

 浅田彰の『構造と力』―記号論を越えて―を読みます。

カタカナ語が多いのがしんどいです。それと発音表記が現代と微妙に違っているのも仕方ないけどイライラします。

それでもパソコンがあるので知らない言葉を今流行のチャットAIに聞くことが出来るのは素晴らしいですね。それでは楽しみながら、曲でも流しながら読み進めます

前言撤回、やっぱり滅茶苦茶に面白い。確かに単語的に読みづらい点はあるけれど軽快で鋭い文体には古さを感じない。ここで話されているまさにノリツツ、シラケルやり方は今においてもというより今でこそより大切なものだ。

 

新生活に向けて

 居場所について考える。

 4月になり環境が変わる人も多い。自分も学年が上がるだけとはいえそれでも十分な変化に感じる。さて自分の居場所に対する違和感がここのところ強まっていた。人、場所を問わず留まっていると見えてくるこの齟齬。つまり相互理解などしあえないのだ。このことには良い面も悪い面もある。その悪い面がこの退屈さや疎外感につながっていると思っているわけで、単純に居場所を移るか増やそうかと考えた。ひとつのものに依存するのは危険であるし自分ではどうしようもないのに振り回されるのはしんどい。その意味で新しく関係を築くのには大切な価値がある。

 相手のことを理解できると思って接すればいいのか、それとも理解できないと最初から突き放すべきなのか…模範解答としては理解したふりを演じることなのだろう。嘘も方便。とはいえ今の自分は人づきあいが下手だ。演じるという以前に愛想笑いも出来ない、プラスに言えば正直なのかもしれない。演じようとしても全くうまく出来た気はせず不快感が残る。だからいろんな場が必要に感じる。なんか小説ハリーポッターに出てくる分霊箱みたいだ。その分霊箱があれば安心できる。こういう風に思えてきた。もちろん楽しめるなら気兼ねなく楽しめばいいし実際そうしているが現実はなかなかうまくいかない。

自由を標榜する

  当学で精神障害者に対する差別発言を行い、その上で「自由」を謳う大学だから問題ないと豪語した新入生がいるようだが非常に残念だ。思想は何を持っても構わないがそれを口に出すことに関して躊躇いを持たないのは恐ろしい。言葉を口にする時は誰かにそれが聞かれるということを理解し、聞いた者がどう思うかについて気を払わなければいけない。ただただ自身の欲求を満たすためだけに罪の無い人を愚弄する自由があってたまるか。

 この手の差別と陰謀論は性質が同じであることにも気を付けないといけない。障害者は自分にはわからないが富を不当に得ているのではないか?在日朝鮮人は自分にはわからないが富を不当に得ているのではないか?誰かがこの世界を裏から支配して富を得ているのではないか?(ラカンで言うところの享楽に当たる)これらの真偽は置いておいても碌に調べもしないでこの思考様式に基づき差別発言を行う者などたかが知れている。この手の人には関わらないのが正解。

当学にも障害者はもちろん在籍しているのだが一体全体どういうつもりなんだか…

『人はみな妄想する』著:松本卓也 読了

 精神病と神経症の鑑別診断が実に様々な観点からアプローチされてきたのだということ。そしてそれは現代の精神医学の診断方法とは全く異なっている。ラカンの思想がエディプスコンプレックスから段々と離れていくことは聞いていたがその過程が読み直すことで理解が深まった。

 ラカンとアンチオイディプスがどのような関係にあるのかについても、先の指摘を踏まえるとこの二つは完全に相反するものではないということが語られる。そしてデリダラカンの論点その差異、特異性を重視する精神分析のこれからについてが語られてこの本は終わる。また一貫して解説はとても詳しく丁寧な印象を受けた。人はみな妄想するというタイトルにもなっているラカンの言葉は鑑別診断が相対化されていくことを象徴していてかつキャッチーである。

 やはり60年代、70年代と難しくなっていった。用語がどんどん出て来てそれがフロイトでいうところのアレに似ていてラカンのアレに対応して…みたいなことが多くて大変。数日で読もうとして実際そうしたが少し無茶をしたという印象。ただ読んでいて楽しかったので後悔まではしていない。そう楽しいのだがやはりこういった本を読んだ後は小説がいいです。